オフィシャルHPの雰囲気からもわかるように、冒頭からクルクル回っている。
なにが回っているのかといえば、部屋の中だったり、バスから見える町並みだったり、登場人物の物憂げな表情であったり。
うーーん。映像の仕掛けがあざといなあ。というのが第一印象。
「こんな映像好きでしょ?」と皿の上に乗せて出されたような気分なのである。
悔しいのは「へえ。全くその通りだす・・・。」
角田光代の同名小説が原作なのだが、この手の小説は全く疎くて先ずは映画から。
舞台は何処かの元気がなくなりつつあるニュータウン。
広いバルコニーがある団地に住む家族の物語。バルコニーには「ERIKO GARDEN」てなプレートもかかっていて幸せの象徴のようである。
そんな優しい母親である絵里子(小泉今日子)は、隠し事は一切なし、何事も語り合える明るい家庭を築いた。
なんてったって家族揃っての朝食の会話が「お前たちを仕込んだラブホテル」の話なのだから。
この時点で、ある意味勘違いしてますな、というのが判る。
「なんでも話せる、隠し事がない。」というのは、「言わなければならない、隠し事をしてはいけない。」状況の中では生まれてはこない。必ず歪みが生まれてくる。言わなくてもいいことを言うのは節操がないということなのだ。
で、この映画の面白いところは、そんなことは百も承知な家族の秘密が浮き彫りになっていくところ。
旦那の貴史(板尾創路)は浮気まくりの足フェチ。娘は学校にも行かずに彼氏とホテルにしけこむ。息子は、知ってか知らずか貴史の愛人ミーナ(ソニン)を家庭教師として家に連れてくる。
永作博美が演じるもう一人の愛人も怖い。いやこれ怖い。何かの拍子にこんな女と深みに嵌まってごらんなさいな♪こんな女、結構いるよ。翻弄されている男も・・・。
ま、アブノーマル全開の板尾創路も魅力的なのだが、やはりこの映画は小泉今日子の顔力だろう。
何気に観ていた前半のコンビにでの一シーン。偶然出くわした娘に肩をたたかれて振り返ったときの表情・・・。
仮面を脱ぎ捨てた無防備な顔に笑顔が差し込む、この瞬間、参りました。
単なるアイドル崩れのタレントだと思っていたのだが、凄い。役者である。
この時点で、この家族は幸せごっこを演じているというのが判る。
一見穏やかではあるが、一皮剥けば嘘と裏切りで塗り固められた実体。
私も、ぱっと見では判らないと思うが、鞄の中にはリカちゃん人形を忍ばせ一時間に一回お尻を撫でている。
通勤中、iPodから流れてくる音楽は、ジミヘンやストーンズではなくリカちゃん電話のお話なのだ。
統計によると普通の日常生活を送っていながらアブノーマルな性癖を隠し持っている人の割合は32%。
さらに医療機関で治療、カウンセリングを必要とする人は12%。
つまり通勤電車に100人乗っているとすれば、32人は私のようにブラジャーをしていたり、パンチーはTバックであったり、洗濯バサミで乳首を挟んでいたりするのである。
今、後ろでツマが家事をしているのに、平気でこんな文章を書く私は凄いと思う。
尚且つ、その通勤電車の中の12人は病院送りなわけだ。
すんません。うそです。まーーったくの嘘です。
でもさーー、この数値、結構いいセンいってると思うんだよなーーーー。
ま、そんなわけで、観ている間は小泉今日子の顔力に圧倒されていたのだが、映画そのものとしてはどうなんだろう。
あまりにも不必要、過激な描写が多すぎる。
例えば絵里子の本質を表そうとしたのか「血」の描写が嫌らしい。
フォークのシーンはいかにも日本映画的な安っぽい描写だし、赤い洪水も「シャイニング」を連想させた時点で失敗である。
中盤の「バビロンにようこそ。」と刺青を見せる兄ちゃんも、あまりにも唐突として登場する意味が判らない。
「バビロンの空中庭園」に引っ掛けているのだとすれば益々お笑いである。(原作を読めば判るのだろうか。)
絵里子の母親(大楠道代)もバスの中で煙草を吸うような傍若無人ぶりから一転、観客の共感を呼ぶ言動。
あまりにも映画的といえば映画的なのだが、もっとシェイプすれば良かったのかも・・・。